キリシタン弾圧と重税に耐えかねて
幕府を震撼させた120日 天草・島原の乱

 美少年天草四郎の実像は、よく分かっていない。しかし、人々の幻想の中に彼は生き、そして死に、現在もなお美少年のまま生きつづけている。 わずか16歳の少年を、彗星のように妖しく光輝かせたのは、肥後のキリシタン大名小西行長の遺臣たちであった。
四郎は、元宇土城主小西行長の家臣で父益田甚兵衛と母洗礼名マルタの息子として大矢野島で生まれた。洗礼名を「ジェロニモ」または「フランシスコ」といい、髪をうしろに束ね紐で結び前髪をたらし、額に十字を立て、白衣を着て、手に御幣をもつなどの、かなり況術的ないで立ちをしていた。(四郎は宇土の江部または長崎で生まれたとも云われている。)
十字架の旗のもと四郎決起す

10月9日、まず上津浦村に四郎は姿を現す。いかにも南国の島らしく、小春日和の好日であった。官営14年(1637年)10月25日ついに島原で、そして、天草でもキリシタン一揆軍3万7千人が武装蜂起。ここに攻める幕府軍12万5千人の大軍と4ヶ月に亘る戦いの火蓋が切られた。

キリシタン一揆軍3万7千のシンボル
この聖旗は、落城寸前に幕府軍側の鍋島藩家臣、鍋島大膳が戦利品として持ち帰った。このため城と運命をともにすることなく、そのまま今日まで生き残ることができた。 昭和39年1月23日国指定重要文化財となる。
原城の露と消えた3万7千人のシンボルであった陣中旗は、その中央部にぶどう酒を盛ったカリス(キリストの血を表す聖杯)、その上に縦長のラテンクルスを付けたオスチア(キリストを表す聖体)を描いている。
描いたのは元原城主有馬直純の家臣で、乱の時の副大将格でもあった山田右衛門作といわれている。

家光、即日上使派遣を決定す

島原藩家老は、「爰元百姓幾利支丹立ち上がり、俄かに一揆の仕合・・・」と江戸へ一報。徳川家光はこれを受け、公儀の禁止するキリシタンであった為、即日上使派遣を決定した。これは、家光がことのほかキリシタンに執心していたと考えられる。

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